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ジョセフ・コヒ
ジョセフ・ヒコ、運命の糸で世界の旅人となった人物
第14回ホノルル・フェスティバルの日米友好セミナーは初の日系アメリカ市民ジョセフ・ヒコの物語をテーマに行われます。2008年6月30日はヒコが市民権を獲得して150周年記念の年。なぜ、この年号が重要なのでしょう? それを理解するためには、日本が150年前どんなであったかを知る必要があります。
徳川将軍時代の日本
150年前、1858年、日本はまだ徳川の世であり、(オランダと中国以外の)外国との通商を禁じ続けていました。徳川将軍家は1639年以来、海外との交流通商の門戸を硬く閉ざしておりました。鎖国と呼ばれるこの政治措置の下、いかなる外国人も日本人も日本への入出国は
死をもって罰せられる大罪とされていました。
マシュー・キャルブレイス・ペリー提督が、1854年に徳川家康の側近と日米和親条約に署名交わし、結果、日本の2港がアメリカ船に開港されたとは言うものの、
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日本人が日本を離れることは、1868年の明治政府復興まで違法とされていました。
では、どのようにして、ジョセフ・ヒコは1858年、日本人が日本を出国することが合法となる10年も前にアメリカ市民になったのでしょうか?
人生を変えた遭難
ジョセフ・ヒコは海岸沿いの播磨という村、現在の兵庫県、に1837年に生を受けました。
彼の幼名は彦太郎といいました。13歳のとき、栄力丸という船に乗り観光目的で出発しました。
ところがこの船は激しい台風にあい破損し、52日間漂流することになります。鎖国政策が施行されていたため当時の日本船は長い航海用に造られておらず、栄力丸は力なく波間に流されておりました。幸運なことに、船には米と他の植物が積み込まれていたため、18人の乗組員は、上海での貿易の後、サンフランシスコに戻る途中のアメリカの商船オークランド号に救助されるまでの悪夢のような日々を乗り越えることが出来たのです。
漂流した日本人を救助したアメリカ人たちは言葉の壁を乗り越えて、彼らを親切に迎えました。
オークランド号のお陰で、彼らは救われたのです。しかし、日本に帰ることはできませんでした、それをしたら彼らは死刑になります。
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