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ジョセフ・コヒ
1858年、ホノルルにて
ホノルルに出入りする多くの船員たちの宿泊施設、食事、娯楽が地元の経済を活性化させる大きな原動力でした。彼らはトラブルメイカーでもあり、船乗りの仕事を放棄し、酩酊し、喧嘩や悪さをしました。船員の友ソサエティーのサミュエル・チェネリー・デイモンは1842年にホノルルの船員専門の牧師になり、船員たちの精神的、知識的、身体的欲求に救いの手を差し伸べていたのです。
節制を提唱し、デイモン牧師は船員たちの無償の宿舎探しを手伝い、港の風紀の良くない下宿から彼らを遠ざけ、読書室を開設し、そこで彼らが最新のニュースを読めるようにし、フレンドという無料の月刊誌を編集配布しておりました。
ジョセフ・ヒコがホノルルに到着する頃には、彼はすでにアメリカで8年生活しており、しっかりした教育も受け、日本人として初のアメリカ市民になっていました。しかし彼の夢は母国日本に帰ることであり、公務の仕事を通じての様々な努力と影響力をもった友人の尽力で、この時、彼は日本に向かう途中だったのです。
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1858年、ホノルルにて
デイモン牧師は、1858年11月9日、フェニモア・クーパー号の船上でホノルルに到着したジョセフ・ヒコに会いました。ジョセフ・ヒコは友人ジョンMブルック船長の好意で航路測量目的の航海に出たフェニモア・クーパー号で日本に連れて行って貰うことになっていました。ブルック船長は深海の正確な地図を作る技術を開発した頭脳明晰な測量技師でした。彼は後に南北戦争で連合国に使用された頑強な船を開発するのに力を注ぎました。
2008年3月15日、ジョセフ・ヒコ・アメリカ市民権獲得150周年を祝って、ドワイト・デイモン、サミュエル・チェネリー・デイモン牧師の5代目の子孫、ジョージ・M・ブルック3世、ジョン・M・ブルック船長の4代目の子孫、などのパネリストがホノルル・フェスティバルの第5回日米友好セミナーにおいて、ジョセフ・ヒコの物語を語ります。
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