9  ジョセフ・コヒ

国家を越えた人類愛
ワシントン滞在中、ヒコは、航路測量の目的でカリフォルニアから香港へ行く予定でいた海軍大佐ジョン・マーサー・ブルックと知り合います。そして彼から、もしかしたら日本に帰るチャンスがあるかもしれないからと、フェニモア・クーパー号の事務員の仕事をオファーされました。ビバリー・サンダースはヒコが無事に日本に帰国できるように、ヒコにアメリカ市民権を取らせることにします。1858年6月30日、ウィリアム・フェル・ジャイルス裁判長より市民権を与えられ、ジョセフ・ヒコは正式に日本人として始めてのアメリカ市民になってのです。

1859年、ヒコが遂に日本に帰国した時、彼は教育を受けた21歳の立派なアメリカ人になっていました。ヒコはアメリカ市民にはなったものの、自分は日本人であると思っていましたので、日本の社会に再び入り込んで行こうとしました。しかし、攘夷派の標的であるヒコにはそれは難しい試みでしたし、また日本語の読み書きを習い直さなければならないということもありました。生まれ故郷だというのに、アメリカ人の作法と服装のせいで、アメリカ人として扱われたのです。

やがて、1864年、彼は海外新聞という国際情報を定期的に発信する日本初の新聞を発刊することになります。それには日本人の編集人岸田吟香(彼はヘボン式で有名なヘボンが日本語をローマ字にする手伝いをしたことでも知られています)と、本間清雄、後のオーストリア大使などの力を借りることになりました。






ヒコはアメリカで学んだ民主主義という概念を強く信じており、1867年には政治にも関わるようになります。尊皇攘夷を推進する長州藩士、木戸孝允と伊藤博文がヒコとアメリカの政治の歴史を語り合うために長崎までやって来ました。1868年、短い内戦期を経て、天皇制の明治政府が復活します。木戸孝允は参議人として明治政府を支え、また、伊藤博文は日本国憲法を草案し、1885年には日本初の総理大臣に任命されます。

彦太郎少年は13歳で漂流し、日米に影響を及ぼし日本の近代化推進の原動力にもなりました。 これは寛大な精神と異文化同士の信頼がなければ起こりえないことでした。これこそが国家を超えた人間愛なのです。


ジョセフヒコ物語・終わり
著者:ジョアン・フジタ
[ハワイ・ジョセフ・ヒコ協会]


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