terukina

インタビュアー: Arlynne Hurley

今回、琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会の設立者であり、指導者である照喜名朝一(てるきな ちょういち)先生にインタビューする機会をいただきました。照喜名先生は、2000年に人間国宝になられた方でもあります。

第16回ホノルル・フェスティバルにハワイの琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会が参加し、それにあたり、照喜名先生の息子さんとお孫さんも沖縄からかけつけてくださいました。
琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会 ハワイは、沖縄以外の土地に作られた初めての琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会で、そのメンバーの数は着実に増え、今日では60名以上にものぼります。

実は、照喜名先生の今回の訪問には、ホノルル市が3月27日をChoichi Terukina Day に定めたという大変おめでたいことがありました。また、ハワイ沖縄センターの20周年を記念して、 ハワイ沖縄連合会のためのチャリティー公演「跳べ! うた三線(さんしん)」をハワイで行いました。

照喜名先生(右) と Arlynne(左)

照喜名先生(右) と Arlynne(左)

私は、今回、インタビューで照喜名先生お会いするにあたって、先生についてもっと知りたいと思い、色々調べていたところ、自分のルーツについて考えることとなりました。
私の父は二世で、祖父は1900年代の初めに沖縄からハワイへやって来て、さとうきびプランテーションで働いた人です。そして、私自身も子供の頃に沖縄に4年間住んでいたことがあり、両親は私に沖縄舞踊を習わせました。美しい着物、三線の音色、太鼓の音、優雅な踊り・・・全てがすばらしく、大好きでした。沖縄の音楽は今でも私の心をほっとさせてくれます。
また、私の父は、1988年に180人の中から野村流古典三線新人賞に選ばれたこともあり、沖縄三線の先生として人生の後半を沖縄で過ごしました。

お忙しい中、時間を作ってくださった今回の照喜名先生へのインタビューの機会は、こうして様々な私の素敵な思い出を呼び起こしてくれました。インタビュー当日の自己紹介の時に、小さい頃の踊っている私の写真と父のことが書かれた切抜きを先生にお見せしたところ、大変喜んでくださり、ぐっと距離が近くなったように感じました。

今回のインタビューは、第16回ホノルル・フェスティバルのテーマだった「Discovery Through Traditions (次世代へのかけはし)」に関連して行われました。400年以上の歴史をもつ沖縄古典音楽を守り伝え続けている指導者、しかも人間国宝にまでなられた照喜名先生にこのテーマについてお話をおうかがいできるということは、私にとって大変光栄なことでした。

照喜名先生が初めて三線を手にしたのは6歳のときでした。童謡の「はとぽっぽ」や ” もしもし亀よ 亀さんよ ・・・” の「うさぎとかめ」を自分流に弾いていたとのことでした。先生のおじいさんがとても褒めてくれ、三線へと導いてくれたのでした。そして、10代の頃には、毎年、地元の芸能発表会で三線と舞踊を披露していました。
そして、安冨祖流の指導者 宮里春輝(みやざとはるき)先生を師としていた照喜名先生のお兄さんを通じて古典音楽を知ったのでした。三線についてはこれまで十分にやってきたと思っていた先生でしたが、三線の古典音楽に衝撃をうけ、宮里先生から学ぶようになりました。それが50年ほど前のことです。

いつ頃から沖縄の古典を守り伝えていこうと思ったかとお聞きしたところ、1960年代の半ばに初めてハワイを訪れた時に、「これだ!」と感じた瞬間があったということでした。

琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会 ハワイのメンバーの方と

琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会 ハワイのメンバーの方と

照喜名先生は、ノースウェスト航空の整備士として長年働いていました。ジャンボジェット機のエンジンの整備について勉強するために世界中をまわっていた頃、ある時、ミネアポリスに行くことになりました。
当時、沖縄はアメリカの統治下におかれていて、沖縄の人々には琉球のパスポートが発行されていました。先生はアメリカに行くにあたって、三線を持っていこうと思ったそうです。それは、万一、パスポートを失くしてしまったときにも、自分が沖縄から来たとわかるようにということからでした。

そして、ミネアポリス、マイアミ、ロサンゼルスから戻った後、全財産をはたいてでもハワイへ行ってみたいという強い気持ちが湧き上がりました。ハワイへは行くことだけで、帰りのことはハワイに友人の親戚がいたのでお金を借りられるかなぐらいの考えで、友人と一緒に飛行機に飛び乗り、ハワイへ向かったのでした。

ハワイで最初に訪れたのはKIKU TVという地元のテレビ局。沖縄の番組で三線を弾きました。その後、島巡りをし、ホテルに入ろうとすると、あるパーティーに連れて行かれました。そのパーティーは先生を歓迎するためのもので、ハワイのローカルオキナワン(ハワイで沖縄の血を受け継ぐ人々)300人が集まっていました。そこで、再び三線を演奏したのでした。そして、たくさんのご祝儀をもらったのでした。

先生の演奏を聞いて、沖縄から来た一世、二世の人たちは皆涙を流していたそうです。美しい沖縄の音楽を聴きながら、故郷のことを思い出していたのでしょう。その時が照喜名先生が沖縄の音楽を守り伝えていこうと思った瞬間だったそうです。

沖縄に戻ってからは、会社と音楽の”二束のわらじ”で忙しい生活を送ってきました。ノースウェスト航空での仕事と自ら事業を起こした那覇空港グランドサービスの仕事、そして三線を教えることを68歳まで続けました。

terukina01そしてこれからは、沖縄の伝統芸能を受け継ぐ優れた若い人たちを育てていきたいとということでした。先生が若い人たちを対象に行っている活動「跳べ! うた三線」が、まさにその為のもので、もうすぐ19年になるそうです。

「若い時に始めれば、一旦やめたとしてもまた後で始められます。続けてくれるのがいいのだけれど、無理に続ける必要はないんです。若いときは習得が早いものです。若いときは『技』、年をとったら『遊び』。伝統というのは若いときから始めるのがいいんです。」

そして続けてこうおっしゃいました。

「三線がなくなるようなことはないでしょう。ピアノのように人が作り出した楽器ではなく、自然な楽器ですから。たった3本の弦で音が奏でられ、声の調子にも合わせられる。だから歌と三線が一つになるのです。
沖縄の音楽は西洋の音楽より古いものですが、急速に広まらなかったのは教える学校のようなものを作らなかったからです。私の学校は無料です。でも難しくて大変です。一生懸命学ばないとだめです。」

今では、沖縄の芸能は日本の誰もが知るようになりました。そしてエイサー太鼓は世界に広まりました。

今回のインタビューの中で、照喜名先生が「芸は身を助く」ということわざを教えてくれました。身につけた技術や芸は自分を助けてくれるという意味ですが、芸はそれだけでなく、人と分かち合うことができる、それができる自分を幸せに感じているとのことでした。

terukina03ハワイのローカルオキナワンへのメッセージ:
ハワイのプランテーションで働くために沖縄からハワイへやって来た一世の方は多くの苦難に耐えていました。ハワイに行ったらお金を稼げると信じ、一生懸命働き、子供たちを育てました。そして、子供たちにしっかり勉強をさせました。教育はとても大切です。
第二次大戦中、一世の方は沖縄の人々のことを心配していました。二世もまた同じです。彼らは沖縄の人々が戦争から早く立ち直れるようにと豚やヤギを沖縄に送りました。そのことを沖縄の人たちは大変感謝しました。
そして、この関係を保つためにハワイ沖縄センターが作られました。私は、一世の方、二世の方に「お疲れさまでした。そして、ありがとう。」と伝えたいです。そして、三世、四世の皆さんに沖縄の文化を伝えていきたいです。

照喜名先生のハワイへの思いは40年以上に渡っています。ハワイの人々を愛し、ハワイアンミュージックも聴くそうです。「アロハ・オエはまあまあだね」といたずらっぽく笑いながら言っていました。

インタビューの後、照喜名先生はステージの準備をし、息子さん2人と孫の3世代でステージに立ちました。私は、今回、先生とお話をして、自分が“オキナワン”であることを改めて誇りに思いました。
照喜名先生の学校が沖縄で、そしてハワイで、更に世界で成功することを願っています。


「跳べ! うた三線」について
沖縄は1980年代から沖縄の芸能を世界に広げることに力を入れ、海外の人にも沖縄の音楽を学んでもらえるようにと力を入れてきました。その一つが照喜名先生が1994年から始めたプログラムが「跳べ! うた三線」です。日頃の練習の成果を披露し、その努力を称えるために行われています。