2016年3月12日(土)14時~16時、2時間にわたりハワイ・コンベンション・センター3F #301にて、シンポジウムが行われました。

今年は、「日系移民の歴史から平和を考える-プランテーショから真珠湾まで」と題し、
“日系移民と平和”をテーマとしています。

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会場は、例年にも増して、スタート前の早い時間から観覧席が一気に埋まりました。皆、注目のテーマのようです。

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日米協会会長で、前ホノルル フェスティバルスポークスウーマンでもあるレニー・ヤジマ氏の司会進行のもと、シンポジウムは今年も2部構成で行われました。

【セッションⅠ】は、ハワイ大学教授のデニス マサアキ オガワ氏による“日系人の歴史”についての基調講演、そして【セッションⅡ】では、『持続的平和』を巡ってのパネルディスカッションです。

 

【セッションⅠ】-日系人の歴史について-

日本からハワイへの官約移民は、1885年(明治18年)に始まりました。プランテーションで生計を立て苦労が多かった移民達ですが、第二次世界大戦がはじまり、1941年の真珠湾攻撃では多くの日系人が日系人強制収容所へ送られました。

このシンポジウムでは、これまでの歴史を振り返り、平和への道を考えるのです。

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ハワイ大学教授のデニス マサアキ オガワ氏です。
ハワイの日系1世 “後藤濶(ごとう かつ)”氏の話をゆっくりと語り始めました。

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後藤濶氏は、日系移民の中でも特に早い時期にハワイに来た人物です。
サトウキビのプランテーションで働くためにハワイに来た方々の一人でした。

アメリカ・ハワイの歴史と共に、後藤濶氏が生きた当時の時代背景をお伝えしておきましょう。

アメリカ早期の歴史は北東の地、フィラデルフィアやボストンから始まりました。人口の推移というのは徐々に広まっていくもの、ゆっくり西部に広がっていったと思われがちですが、それは違います。
「金」が発掘されたのです。
西へ西へと、急激な勢いでどんどん人々は金を堀に行ったのです。
そして、ハワイもこの流れに乗ることになります。

当時アメリカでは南北戦争がありました。
その時、南が戦地になっていたため砂糖が不足していました。もちろん、西海岸に辿り着いた人々は、ハワイのサトウキビにも目を付けます。

サトウキビを栽培するにはプランテーションが必要ですし、土地も必要です。
1850年頃には、人々はハワイの土地を取得するということに非常に興味を持つようになりました。
ですが、プランテーションを運営していくには労働力が必要です。

それは、ただの労働力ではなく、低賃金で働いてくれる労働者です。

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当時、ハワイの振興というのは衰退の一途を辿っていました。

そのため、ハワイのプランテーション経営者たちは、外から労働者を呼び込む必要があり、世界各地から約40万人もの労働者を集めてきたわけです。
その中で、なんと15万人を締めたのが日本人でした。
フィリピン12万、中国5万人、韓国も多くはないが8,000人来ました。

日本人は3年契約という条件でハワイに来ていました。その労働状況はとても過酷なもので、賃金は劣悪、プランテーションで儲けられる人たちは本当にごくわずか、その他は生活もままならないという状況が続きました。

当時のハワイの内訳は、白人が7%、残りの93%が白人以外でした。
巨万の富と貧困、という大きな格差が存在したようです。
そこには、また、経済的な格差だけでなく、人種的な差別もあったと言います。

7%の白人はお金持ちというだけでなく、権力を持ちハワイの全てを牛耳っていました。
政府、物流、経済、そして神をもコントロールしていたのです。

彼らは、頭も良く、人術にも長けていました。
労働者をうまく使わなければ、ちゃんと働いてもらえません。

プランテーションのオーナーでもある白人はある戦略を使いました。
人種毎に管理し、居住地を分け、団結して歯向かって来ないようにしたのです。
そして、賃金に格差をつけました。

中国人は日本人より50¢多くもらう。
日本人はフィリピン人より50¢多くもらう。

日本人は中国人より少ない不満はあるものの、フィリピン人よりは多い。
その優越心理を利用したのです。

後藤濶氏はまさに、ハワイのこういった状況で生活していたのでした。

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彼が第一陣の船で到着したのは、ハワイ島のハマクアという地域、当時23歳でした。
3年間の契約任期を終えた頃、多くの日本人は帰国したが、彼は残ることにしました。
そして、商店を開きました。

後藤濶氏はとても勤勉に働きました。そして、お店も成功していました。
彼は、人種に関わらず公平な価格で商品を販売し、お客を信用しツケで買うことも許していたからです。また、彼はハワイにずっと暮らすつもりだったので、非常にまじめに英語を勉強し、とても上手な英語を話すようになっていました。周りの労働者たちは、英語が話せませんでした。ですので、何か困ったことがあると必ず彼のもとを訪れ、とても頼りにしていました。

しかし、他の商店は、プランテーションオーナーが経営していたため、商売敵の彼は嫌われ、憎まれていました。“出る杭は打たれる”。プランテーションオーナーはお前を殺してやると脅します。しかし、彼はその後も他の労働者たちを支え続けました。

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1889年10月29日。
ハワイにきてから4年が過ぎた頃のある朝、後藤濶氏は、電柱に首をつられた状態で発見されたのでした。そこは、ホノカアの街。リンチでした。
ホノカアの街の近く、ハマクアの浄土院の墓地に亡骸は埋葬されました。

後藤濶氏にはフミコさんという姪が居ました。彼が亡くなった時、彼女は日本に戻っていました。彼女が再びハワイの地に足を踏みいれた時、自分の叔父がどのような死を遂げたのかを知ることが出来ました。彼女は叔父の死を聞いた時、怒ることはなかったそうです。

彼女は、ホノカアの墓地を訪れました。お墓は朽ち果て、見る影もない状態でした。

そして、お墓を立て直す決心をし、御影石で綺麗な墓を作りました。
さらに、怒りに燃える代わりに、叔父の人生を讃え、物語を伝えて行こう、皆が平和な社会を作れるようにしよう、とエネルギーを注いでいきました。

その後、彼女は、日本で日米交流基金を作りました。そこで奨学金を出して、若い者たちがハワイに来て平和を学ぶことが出来るように、そして日本の文化ももっと理解し日本との緊密な関係を作るにはどうしたら良いのかを学べるようにして行きました。

彼女は後藤濶の死をもっと意味のあるもの、将来につながるものにしていったのです。

「過去のことを語り継ぎ、偉業を讃え、将来に貢献できるように」という方向に、さらに言うなれば、この悲劇を基に、相互親善が行える方向に舵を取ったのでした。

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そして、デニス マサアキ オガワ氏は、以下のように彼の物語を締めくくりました。

「現在、後藤濶氏は亡くなり、姪のフミコさんも亡くなりました。
けれども、ホノカアには彼の記念碑が建っています。もしハワイ島に行ったらホノカアの記念碑を訪れてみてください。とてもきれいなので見逃すことはありません。屋根には400枚の綺麗なタイルがひかれています。2本の木造の柱に支えられています。記念碑には、文字が日英両語で書かれています。2本の柱ですが、一本はハワイのオヒアの木の柱、もう一本は日本からのヒノキの柱です。そして、その下の礎(いしずえ)は、ワイピオ渓谷から取り寄せた石になります。もう一つの壁はハワイ島の花崗岩が置かれています。この記念碑そのものは、ハワイと日本の強い絆を示しています。今回のホノルル フェスティバルのテーマ、”平和と調和を築く”と全く同じことだと思います。」

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『今のお話を聞いて、新しいことを知った、勉強になったという方は是非挙手を』と司会から促すと、会場は、たくさんの挙手と大きな拍手で包まれました。

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セッションⅠの終わりには、“ハワイ日系人強制収容所の知られざる歴史”について、ハワイに存在したホノウリウリ強制収容所の様子が動画で紹介され、過去の悲劇を認識することとなりました。ホノウリウリ跡は、約1年前にオバマ大統領により国定史跡として認められています。

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【セッションⅡ】持続的平和を考える – 日系人移民の物語から

続いて、【セッションⅠ】の後藤濶氏の物語を踏まえ、壇上に控えていた
ハワイプランテーションビレッジ ドーセントのケネス・カネシゲ氏、
元ハワイ州知事のジョージ・アリヨシ氏、
アロハ豆腐社長ポール・ウエハラ氏、
そして、モデレータを務める日本文化センター専務理事キャロル・ハヤシノ氏
がそれぞれの意見を述べました。

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1世、2世の方々の働き、そして犠牲が、今の私たちの生活にどれだけ役に立つものだったのかと染みじみと感じさせられると感想を述べると共に、彼らの口から出た言葉で、未来の平和に繋ぐ共通のキーワードがありました。

それは、「価値観」

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キャロル・ハヤシノ氏は、
受け継いできた価値観の文化的なものとして、「おかげさまで」「我慢」「がんばれ」「しかたがない」といったワードを上げ、『こう言った考え方は、歴史の荒波をくぐり抜けてきた日系人の支えとなってきた』と述べ、

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ジョージ・アリヨシ氏は、
ハワイにはとても重要な価値観がある。それは、「恥」という価値観。どういうことかというと、自分の親しい方々、家族や大事な人々に恥をかかせない。迷惑をかけない。それを小さなころから聞かされていたようで、ハワイで育ち、このような価値観を身に付けたのだそう。
『この価値観と共に、皆様の住むそれぞれの場所で皆さんが出来ることをやってもらいたい。それぞれが出来ることやるべきことをやれば、日本やアメリカ、その他の国を繋ぐより良い未来に繋がっていく。』
と語り、自らが歩んできた個人的な背景を基に、未来へのヒントを与えてくださいました。

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ポール・ウエハラ氏の言うハワイの価値観は、「共に協力すること」、「一生懸命働くこと」、「お互いの信頼関係」。それは、主に日系の会社、家族に共通してみられ、口で言うよりも態度で示すもの、と親たちから伝えられてきたものでもあります。
『教わってきた価値観というものが、私たちの家族だけでなく、アロハ豆腐の中にも浸透している。そして、今や社風となったこの文化をこれから次の世代にどう渡していくか、どう受けついでいくかが課題』と語りました。

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また、ケネス・カネシゲ氏は、セッションⅠの講演中にあったプランテーションでの労働環境を例にあげて価値観を説きました。
『人種を管理する側からのメッセージもあった。
みんなで交わって仲良くしなさいとうよりも、元々の技術を大事にしなさい。自分たちの価値観を崩さず後世に伝えていきなさい。というような奨励するやり方だったかと思います。
結果的に考えると、日本人であること、日本人の価値観を非常に強く打ち出していったこととなります。例えば真珠湾の攻撃があった時期には、日本の仏教のお寺がハワイには150あった。日本語学校も180あったと言われています。非常に日本的文化、そして価値観というものが奨励されていたわけです。申し上げたいのは、ハワイというものは多文化が共存する文化になった。それを享受する、楽しむ文化である。それぞれが尊重し、共存する文化、それが、ハワイがハワイたる所以。』

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最後に、観覧席で話を聞いていたハワイ日本総領事三澤康氏より、2点質問が投げかけられました。

➀ハワイ、また、アメリカ本土から来る若い方々が、いかにこの日系移民のレガシーについてご存じであるか?
➁もし日本から来る人々が、このレガシーを学びたいということであれば、どうすれば知ることが出来るのか、どのような場があるのか是非教えて欲しい。

ハワイ大学教授のデニス マサアキ オガワ氏の回答としては、

『若い人たちは自分が知っていることをわかっていないと思う(笑)
ということで私は、当分大学の仕事を辞められない、教えていく必要があるでしょう』

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と会場に笑いを起しながら答えつつ、また、
どの民族も自分たちの祖先が何をしていたか非常に興味関心を持っているのは明白、
旅行者や若いローカルに伝えるためにも、日本文化センターの役割、プランテーションビレッジの役割は大きい、と重責を担っていることを改めて認識しているようでした。

では、何をこれからやって行けば良いのか?
今回のシンポジウムでヒントが見えてきたのではないでしょうか。

歴史的な絆は、「価値観」で結ばれています。
守るべき価値観、そしてその「伝承」・「共有」が、過去を学び、未来の平和に活かす上でとても大事なことのように思えます。

そして、伝承・共有には、コミュニケーションが必須です。
ホノルル フェスティバルの醍醐味とも言える”異文化コミュニケーション”が、未来の世界平和へ向けたひとつの手助けとなっていくことを願い、また来年以降、新たな取り組みを行って参ります。