「文化交流、平和への道」。この第23回のサブテーマに沿って今年最も注力して作り上げたイベント、それが「杉原千畝 -ユダヤ人を救った命のビザ-」 です。
ホノルル フェスティバルには華やかで楽しい「お祭り」の要素の他に、その真骨頂として例年開催しているシンポジウムなどの文化的な価値創出があります。
■2015年の第21回のシンポジウム「ハワイにおける今後のエコツーリズムのあり方」、
■2016年第22回の「日系移民の歴史から平和を考える-プランテーションから真珠湾まで」
のシンポジウムは記憶に新しいところではないでしょうか。
2017年第23回は、形式をシンポジウムから変更し「杉原千畝」をめぐり、関係深いゲストをお招きしての第一部の基調講演会と、第二部の2015年製作の日本映画『杉原千畝 スギハラチウネ』映画上映の、二部構成とし、多くの方へ門戸を広げた参加型のイベントを企画・展開しました。
3月11日(土)3月12日(日)の計2回に渡るイベントはシアターが満員となり、立ち見が出るほどの観客動員となった。
第一部は4つのプログラムで進行しました。
1)ホノルルフェスティバル財団を代表して治福 司理事長のショート・スピーチ
2)現リトアニア大使の重枝大使からのビデオメッセージの上映
3)オアフ島在住ユダヤ人 Seymour Kazimirski氏のスピーチ
4)「命のビザ、遥かなる旅路ー杉原千畝を陰で支えた日本人たち」の著者・北出明氏の基調講演
左から ホノルル フェスティバル理事長 治福 司、Seymour Kazimirski氏、北出 明氏
続いて第二部は、2015年製作の日本映画『杉原千畝 スギハラチウネ』の上映です。
このイベントを治福理事長と共に企画し実務を担当したスタッフは、10カ月以上前から構想を練り、各方面への協力依頼やコーディネートに明け暮れました。(日本のテレビ局からの版権はJTBグループの契約を利用)紛争や民族問題といった世界情勢の現実を見るとき、ホノルル フェスティバルが「形」にして世に送り出したかった「大切にしたい平和へのメッセージ」。その想いをこの日イベントを通じて実現することができました。
【ホノルルフェスティバル財団代表・治福理事長のショート・スピーチ】
ホノルル フェスティバル財団を代表して治福理事長からは、まず杉原千畝のビザ発給と連携しウラジオストックから敦賀までの輸送を担当したJTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの功績について紹介が行われました。
続いて前ホノルル総領事/現リトアニアの重枝大使のビデオメッセージの紹介、オアフ島在住のユダヤ人Seymour Kazimirski氏の紹介、日本からは「命のビザ、遥かなる旅路ー杉原千畝を陰で支えた日本人たち」の著者で、今回の基調講演を行う北出 明氏の紹介がなされました。
スピーチの結びでは、イベント協力者への謝辞が述べられると共に、観客の皆様に在リトアニアの杉原千畝ミュージアムに送る寄付金へのご協力を呼びかけられました。
【重枝リトアニア大使からのビデオメッセージ】
杉原千畝を語る上で欠かす事の出来ない国「リトアニア」。この日のために現リトアニア駐在日本国大使重枝氏(前ハワイ日本国総領事)よりサプライズビデオメッセージが届きました。
財団の星野 明夫事務局長は前ホノルル日本国総領事でいらした重枝リトアニア大使とのご縁を、このイベント企画に活かすべく、早くからビデオメッセージ作成を検討し着々と準備を進めてきました。JTBヨーロッパ・プラハ支店の杉田社員の多大なご協力により、重枝大使ご自身による杉原千畝ミュージアムを中心としたリトアニアの紹介がビデオメッセージを通じて行われました。
カウナスの杉原千畝記念館(旧日本国領事館)やビザを発給していたメトロポリスホテル、首都ヴィリニュスにある記念碑など、映像と共に「杉原千畝」の足跡が紹介されました。
【オアフ島在住ユダヤ人のSeymour Kazimirski氏のスピーチ】
Seymour氏のご両親はホロコーストからの生き残りであり、ナチスの手を逃れてカナダへ移民しました。64人いた家族全員がナチスの手により殺されご両親のお二人だけが唯一生き残ったといいます。ご両親の経験を後世に伝えると決意したSeymour氏はハワイでもホロコーストのレクチャーを100校以上の学校に行ってきました。
また2003年にはハワイ州のリンダ リングル州知事の元「杉原千畝の日」が制定されたエピソードを紹介し、そのイベントの際にハワイを訪れた杉原千畝の妻 幸子(ゆきこ)さん、息子の千暁(ちあき)さんとの忘れられない感動的な出会いなどが語られ、杉原の自らの危険を冒しても選び取った勇気ある「行為」に敬意を表しました。
史実の重みを持つSeymour氏のスピーチにより、歴史と千畝のとった行為がよりリアルなものとして認識されました、Seymour氏のイベントへのご協力に感謝いたします。
【『命のビザ、遥かなる旅路』著者 北出明氏による基調講演】
第一部のメインイベントである北出明(きたで あきら)氏の講演が同時通訳によりスタートしました。北出氏が2010年頃から取り組んでいるテーマは、「杉原千畝」当人ではなく、杉原千畝を影で支えたジャパン・ツーリスト・ビューロー職員の「大迫辰雄」。
また杉原千畝のビザ発給により避難して命が助かった「杉原サバイバー」の行方にスポットライトを当てて活動をしています。スライドを使った講演内容を、ご紹介していきましょう。
大迫辰雄氏は、当時のジャパン・ツーリスト・ビューローの職員(JTBの前身)であり、ヨーロッパから逃げてきた難民をウラジオストクから日本の敦賀まで船で輸送、その業務にあたった人物です。実は大迫氏が北出氏の勤務先で上司だったことがきっかけで北出氏の活動はスタートしたのです。
映画-杉原千畝-では、若手実力派俳優の浜田岳が演じています。左上が大迫氏本人の写真です。
時は1940年、舞台はニューヨークのロックフェラーセンタービル。ここからすべてが始りました。
ある日、ロックフェラーセンタービルにあるジャパン・ツーリスト・ビューローのオフィスに一本の電話が掛かってきました。
「もしもし、こちらは旅行会社ウォルターブラウンです。我々はアメリカのユダヤ人団体から今、第二次世界大戦のあおりを受けてヨーロッパから逃げ出してきているユダヤ人たちの逃避行を助けることを依頼されています。御社にはシベリアのウラジオストクから敦賀まで、船で彼らを輸送する業務を依頼したいのですが、受けて頂けますでしょうか?」
この電話を受けたのがヘーゼル・アリスンという女性でした。彼女とそのボスは、東京本社に電報で伺いを立てました。スライドの写真がその時の電報です。
東京本社では喧々諤々の議論が行われました。というのも、当時日本はドイツと同盟を結んでいました。
その同盟国ドイツのユダヤ人を排斥しようという政策に反する行為をしようというわけです。当然反対も多かったのです。
しかし、最終的には、ビューローは人道的見地からその業務を請け負ったとう結論に至ります。
スライドの右側の船は輸送に使われた2,346トンの天草丸です。大迫氏の回想によると1940年の終わり頃から41年の春先まで、日本海が一番荒れる時期に業務は行われました。
大迫氏の同僚との写真。中央には輸送業務中のユダヤ人の方との写真も見られます。
北出氏と大迫氏との出会いは国際観光振興機構(JNTO)でした。北出氏は1966年国際観光振興機構(JNTO)に入社。丁度同じ頃、大迫氏はJTBから国際観光振興機構(JNTO)に出向してきたのです。北出氏は約3年間の間、大迫氏の下で働く機会がありました。
職場を共にした際には、北出氏は大迫氏がこの勤務にあたっていたことを知りませんでした。しばらくして、この事実をを知らされ驚いた北出氏は、ある関連写真に出会います。大迫氏が海上輸送を担当してから、約60年の月日が流れた後でした。
関連写真の入ったアルバムの7人のユダヤ難民の写真。北出氏はこれに大変な感動を覚えました。そして、この方たちが今どこでどうしているかが気になり、頭から離れなくなったのです。
北出氏は、下段左から二人目の方に一番の印象を受けました。それは、この厳しい視線。まさにユダヤ人が受けていた苦難、これを象徴するような視線だったからです。
彼らは皆、写真の裏に自筆で名前やメッセージを残していました。
そこには、それぞれの出身地の言葉、ノルウェー語、ブルガリア語、ポーランド語、ドイツ語等で、
「我がよき友大迫に、我がよき思い出を」
「私を覚えていてください。」
「素敵な日本人へ。」
「親愛なる大迫さんへ。」
と大迫氏へ贈る言葉が書かれていました。
【杉原サバイバーのその後】
2010年9月、北出氏はユダヤ人達の消息を辿るため、遂にアメリカに渡りました。杉原千畝の出身地である岐阜県八百津町とユダヤ難民が上陸した福井県敦賀市の役所から9名の杉原サバイバーのコンタクト先を入手し、アメリカを訪れたのです。
ニューヨーク在住、スモローさん。右の写真、これが杉原ビザ。自分と両親の3人の命を救ってくれたこのビザを杉原氏出身の岐阜県八百津町に寄贈したことでも知られています。
ニューヨーク在住、銀行家のフィショフさん。天草丸で敦賀に来たが、ちゃんとした書類が無かったため、またウラジオストクに追い返されました。シベリアに送られることを覚悟したが、神戸にあるユダヤ人協会の支援で敦賀に入国出来たという経緯を持っています。
ヨーロッパを出た時、家族は全員強制収容所に送られ命を落としました。アメリカに渡った時は天蓋孤独の身。しかし、懸命に働き、妻子にも恵まれ、今では息子5人、孫28人、曾孫は数えてられないという大家族に。
アメリカから帰国後、北出氏は多くの講演の機会に恵まれていきます。その甲斐もあり、2014年4月、大迫氏のアルバム写真で気になっていた7人のうち5人の身元が判明しました。
大迫氏のアルバムの、悲しいまなざしの写真の女性、ソニア・リードさん。アメリカに渡り結婚し、幸せな生涯を送ったようです。
写真唯一の男性は、バックギャモンというゲームの世界的名手となっていました。バハマ諸島の第1回国際バックギャモン大会で準優勝。その後の足取りは不明です。
アメリカ取材にて判明した、これら知られざる人々の消息は、『命のビザ、遥かなる旅路』として出版されています。
この日の講演のためにフェスティバル財団との段取りを幾重にも重ね、ご自身の著作を通じて情熱的に講演に取り組んでいただいた北出氏に感謝を申し上げます。
北出氏の著書『命のビザ、遥かなる旅路』(交通新聞社)
【 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」上映会】
北出氏の講演会終了後、続いて映画上映会が行われました。
第2次世界大戦中ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために日本経由の「命のビザ」を約6,000人のユダヤ難民に発給し救った外交官、「日本のシンドラー」とも言われる杉原千畝の感動の生涯を描いた作品「杉原千畝 スギハラチウネ」。
当時彼の勇敢な行動は、日本政府の指示に背く形であり、リスクが非常に高いものでした。
杉原氏によってビザを入手したユダヤ難民たちは、ヨーロッパから日本経由でアメリカへ向かう必要がありました。そして、ユダヤ難民輸送に当たり「天草丸」という船を手配し斡旋したのがJTBグループの前身ジャパン・ツーリスト・ビューローでした。
ユダヤ難民とジャパン・ツーリスト・ビューロ職員を乗せた天草丸は、ウラジオストクから敦賀、そして神戸と横浜を経由して無事にアメリカへと到着しました。
それは、まさに「命のリレー」の物語です。
会場外には、JTBの協力により可能となった命のビザに関する展示パネルも設置。2時間にわたる映画終了後はそのパネル前に行列ができるほどで、観終わった方々からは「良かった」「感動した」などの嬉しいフィードバックをいただくことができました。
財団の寄付担当者も、リトアニアにある「杉原千畝記念館」へ寄付を行うため、スタッフとボランティアを組織して、募金を募りました。講演会や映画を観て感銘を受けた方々からの募金は1,000ドル近く集まり、ホノルルフェスティバル財団からもこの募金に追加し、総額2,000ドルをリトアニアにある杉原千畝ミュージアムに寄付することが決定しました。
「杉原千畝」「大迫辰雄」から受け継いだ命のリレーのバトンは、時を越えこのイベントを通じてハワイに住む人々に手渡されました。イベントを通じ、平和について「考え」そして「行動する」きっかけを創造できたと信じています。